突き抜ける

無意識の本を読んだ。

著者の本は他にも2冊読んでおり、言っていることの本質は変わらない。

 

自分の潜在意識が投影されたものが現実である。

で、この潜在意識が入る器があって、それを”メタ無意識”と著者は呼ぶ。

この器には未来も入っていて、器によってそこに入る潜在意識の意味合いも変わる。

自分の本当の欲求が何なのか、本当に目的とするものをつきとめて、それを器とし、そこに潜在意識が収まると、その存在意識の意味が変わる。すると思考が変わり、行動が変わり、現実が変わるのだ。

 

メタ無意識を見直して、人生とのダンスを楽しもう。

 

そうしたことが書かれている。

 

さてさて。有り体に言えば、自分が望むように自分らしく生きよう、とも言い換えられるだろうか。

僕は不思議とこの本を読んで心が軽くなるんだ。

色んな考えや常識、道徳的なところから、「〜しなければいけない」「〜でなければいけない」というような考えが強く根付いていて、それが僕の行動を規定していると感じる。

最近違う本で読んだ、違う無意識本からの学びとして、自分のメガネ、自分のクセというものを自覚するよう努めてから、「自分の中のイデオロギー」とでも呼べばいいのかな、そういうものを一旦横におくようにしてから、余計なことを考えることが減ったように思って、ちょっと生きやすくなった。

きっとこの本にはそうした可能性が沢山あって、何せ脳の使い方を変えてしまおう、9割の使っていない脳みそを使ってもっと凄いこと起こそう、という意気込みを感じられる。

 

で、本を参考に自分の潜在意識のチェックをしてみる。好き嫌いの前提にある共通項目は何なのか。

 

子供の頃はあまり褒められなかった。

怒られない様、間違いをしないよう、良い子でいるよう努めた。

 

失敗しないために、一般的な良い人間であるようにする。それは、反感を覚えられない、あるいは常識に照らし合わせて間違いのない言動をすること。守りの姿勢として、そうした言動でいるには、「〜しなければいけない」という思考になる。

 

そうだとすると、次の質問は、なんでそう思うの?なんで間違ってはいけないの?

 

間違えると、人は僕に対して失望する。ダメな人間だと思う。すると僕から離れていく。価値のない人間だと思われて、その人から嫌われるか、関心を失われる。

きっとそれが怖いのだ。

 

小学生の頃に、教室でうさぎに餌をあげるような授業があり、各自自宅から人参をもってくるよう言われた。そして自分の家から持ってきた人参をあげようとしたら、うさぎは匂いをかいで、特に食べることなくプイッと他へいき、他の人の人参を食べた。

これは小学低学年の僕にとって、とても悲しかった記憶がある。

僕は選ばれなかったのだと。価値のない人間なのだと。

そこには、家が貧乏だから、という社会的属性もついていたのだと思う。

自分は貧乏で、価値のない人間なんだ、というような考えがそこにあったのだと思う。

そこで自分自身にレッテルを貼ったのだ。

関心を得られない、価値のない人間なのだ、というような潜在意識。

そこからくる、自分への自尊心の低さ。

 

もう一段掘ってみる。なんで、うさぎに人参を食べてもらえなかっただけで、そこまで思ったのか。

前日に、母親に聞いて冷蔵庫から人参を一つもらっているのだが、そこではうさぎに食べてもらうために、というようなやりとりがあったと思う。

ある意味そこで、母親との共同作業が生まれていて、それすらも否定されたような感触になったのかもしれない?

すると、母親をも否定されたことが、子供心にショックだったのだろうか?

母親だけでなく、家丸ごと、その家庭の価値を否定されたと感じた?

 

あるいは、さらに潜在的な意識として、自分には記憶がないものの、母親と離れた原因は自分にあって、それが自分を選ばれなかった、価値のない人間だ、というような波長にシンクロした、という出来事なのだろうか。

 

本当のところ、どちらなのか分からない。どちらもそうなのかもしれない。

だとしたら、共通項目は何だろうかと考えると、そこにあるのは「存在の否定」と言えるのかもしれない。

 

無関心、無価値。いないことと一緒。いなくてよいもの。

存在の否定。

 

非常に強烈なキーワードが出てきたぞ。

 

しかしここで、否定、というのはむしろ積極的な行為にも感じる。あるものにたいしてないと働きかける感触がそこにある。もともとないものは否定のしようもないのだから。

すると、非存在、という言葉が湧いてくる。ぐぐると意味は以下のようだ。

〘名〙 (mē on の訳語) ギリシア哲学で用いられた概念。存在の否定。存在のさまざまな意味に応じてその否定も、相対的な場合(あるものの欠如)、または現存否定(あるものがない)、何ものもない空虚、空虚な空間などとなる。さらに、本来思考の対象にならないものを意味することもある。非有。

何もない、空虚な存在。

自分は存在しているのに、周りからそれが認知されない。他者の世界に自分がいない。

それが恐ろしいのだ。

そうならないために、関心を持ってもらう、価値を認めてもらう。そのために、模範的な言動をし、立派な人になろうと思う。

このあたり、すべて他人軸だ。

 

でも、だ。人の記憶に残りたいよね?死んだ後に残るのは他者の中にある自分に関する記憶じゃないか。そう考えると、他人の無関心が怖い、というのは本能的な反応ですらあると思う。うさぎに人参を食べてもらえなかっただけでそこまで感じ取るかどうかは置いておいて。

 

ただ、それを目的としてしまってはいけないのだろう、と考える。

結果として人の記憶に残るのならそれは有難いこと。それは手段だ。

本当の自分の目的は別にある。それは何か?

最近思うのは、自分は色んな人に助けられながら生きてきたし生きている、ということだ。自分の気づかないところで、随分人にお世話になってきた。それを気づかずにいたのは、わざわざそれを恩着せようというような態度で接してきたり、言ってきたり、そうした言動を受け取ったことがないからだ。

何か、そういう人として当たり前、みたいな清らかさというか品格、というものが好きだ。人という字は支え合っている、というのはどこかの金○先生のセリフかもしれないけども、それをつい思い出してしまうし、それが当たり前なのだ。

もたれ掛かってはいけないけれど、支える、助ける、というのは何もアピールするようなことではなく、人としてさっとできることが美しいあり方なのだと思う。

じゃあやりたいことは人助けなんだね、というと、そんなおこがましいことは言えない。人助けをしようという意志は美しく尊重するべきことだと思うが、私は人助けをする、と言うのは違う、ということを妻から聞いて、なるほど、と思ったし、いま繋がった。わざわざ言うことではないのだ。なぜならそれが当たり前、だからだ。

 

当たり前のことを当たり前の様にやることが一番難しい。

 

この言葉も最近聞いた。なんだか色々繋がっているなぁ。

繋がっているなぁついでに言うと、最近読んだ本に、ギバーという考え方がある。テイカーは自己利益のために人から奪おうとする人、マッチャーは借りを返してバランスシートを保とうとする人、ギバーは人に与える人、というカテゴリーに分けたもので、長期的にはギバーが受ける恩恵というのは大きなものがあり、世の中を良くしていくのは(必要な時は自分を守ることができる)ギバーなんだなぁ、というように考えている。このことが、”人に与える”という僕の言葉を以前よりも意味あるものにしている。

 

そろそろまとめよう。

  • 僕の中の潜在意識に、他人から無関心にされる、無価値と思われる恐怖があって、そうならないために「〜すべきだ」という模範的な言動を守りの姿勢としてやってきていることが分かってきた。
  • 去年やここ最近の経験から、「割と自分はできるんだ」という自信がナチュラルに身につく様になっていて、「新しいことを学ぶ」ということにチャレンジの最中で、かつ自分のクセに自覚的であろうと努めているので、こうした潜在意識の書き換え準備もできている。
  • そして、当たり前のことを当たり前の様にやること。人の助けになることを心がける。自分は人に何を与えられるか、ということを意識している。
  • そうしてきて、自分の目的はなんだろう。自分のメタ無意識をどう変えよう、と考えた時、「人が人を支え合う、というのを当たり前の社会にしたいし、より多くの人が、自分は色んな人に支えられて生きている、自分も世の中に恩返ししよう」と思える世の中にしたい。
  • 人に与えることが自然でそれが幸せである世の中にする。

これって、すごく綺麗事なんだろうか。

でも、綺麗事でもいいじゃん。ドロドロしたり腹黒くなったりとか、僕には合わないしできないんだよね。

青臭いことだから、逆に情熱的になれる、ていうのがあるし、だからこそ、実現したいって思う。夢を語って描いて実現する、それが夢ってもんじゃない、とか。

 

人に支えられている自分が人に与える、恩返ししていく、そうした循環が生まれるのは、以下の条件が必要になってくるだろうか。

1.自分っていう人間は、多くの人に支えられて生きていることに気づく

2.恩返ししたいと思うような価値観を醸成する

3.恩返しする行為で実際に幸せを感じられる世の中

 

これを当たり前の様にやっている人って、きっと世の中にたくさんいるんだろうなぁ。

すると、大きく2つに対象を分けると、僕が取りたい行動ってのは以下の手段が考えられる。

 

1.まだそうでない人に対しては、そういう人を増やす 

=>  教師あるいはコーチン

 

2.すでにそうである人に対しては、そういう人を世の中にたくさん紹介する 

=> アナザースカイのパーソナル版の様なものを製作し、色んな人を取材しその魅力を発信し続けられるようなプラットフォームを作り運営する

 

うんうん、ちょっと解像度があがってきたぞ。いいね!