堕落しきれない

堕落したい。

ダラダラ過ごしたい。

責任から逃れてフリーストレスで過ごしたい。

どこか遠くで自由にのびのび過ごしたい。

 

おそらく社会人の大部分の人が望んだことのあるようなことではないだろうか。

家にいる時間が長くなると、自由な時間が増えるか。決してそうではない。

新しい仕事は増えるし学ばなければいけないことは山積みだし対処しなければいけない問題は毎日出てくる。

その一つ一つをきちんと消化できていない。だから未処理のまま新しいものが目の前に増え、未処理のものが積み上がっては記憶とともに消えていく。

だから自身にもならず不安と焦りばかりが募っていく。

自分の能力不足を痛感し、無力感に苛まれている。

そうした現状に嫌気がさす。すべて放って楽になりたい。

 

ようは現実逃避なわけだ。

一方で、目の前の仕事、覚えなければいけない身に付けなければいけないことは、自分のやりたいことかと言われたらそうではない。

この先の時間、どこまでそれが必要なのだろうか。いや、いまの会社に居続けるには、間違いなく必要なことなのだ。

しかし会社の外、もっと他の領域を含めて考えると、自分の時間をそこにフォーカスして良いのだろうか。そうすることが自分のやりたいことなのか?

という考えも捨てきれない。

じゃあ他の分野に挑戦したいか?そこは自分に自信がなかったり、変化に対する恐怖がある。

変化、という意味では今いるところも同じように変化の連続だ。変化していく只中にある。

confort zone はどちらにしても脱していく必要があって。

 

すると、変化の質が違う。

いまの業務のやり方を変化していくことと、業務そのものを全く別の領域に変えること。

後者のほうが変化の質が大きい。環境をガラッと変える必要。

いずれにしても、自分の能力が問われる。

コミュニケーション能力は普通かそれよりある、とは思う。

一人ひとりと向き合う、自己開示する、深いところでつながる、という点については課題が多いことは自覚しているが。

仕事への処理能力はどうか。

理解力:不足

記憶力:不足

複雑なものを簡単にして理解する力:不足

応用力:普通

決断力:不足

行動力:普通

セルフマネジメント:不足

 

ざっとみると、自己評価が低い。すくなくとも自分の知的能力が劣っていると自己認識している。

脳みそは使わないと強化されない。筋肉と一緒だ。

おそらく、あれもこれもと手を付けて一つも消化できなくやめてしまう、だから自信もつかない、という負のスパイラルを断ち切れていないことに問題がある。

心を鬼にして、一つのことしかやならいようにしないと、次に繋がらない。

そしてハードルを下げること。理想が高いとずっと不安とあせりが消えずに目の前のことに集中できなくなる。

見るのは目の前のこと、見つめるのは遠くのこと、で良い。

一つのことを見て、それをきちんと消化する。その間に他のことはやらない。

 

堕落しきれない、ってのも同じだ。

ダラダラしているだけで一日が終わったときの罪悪感たらない。

反対に、一日やろうと思ったことをすべてこなしたり、運動してはつらつとした気持ちで一日を過ごすと、だいぶ気分が良い。

今日のように朝からブログを書いて考えを整理するのも、自分の中では楽しいことだ。

ということは、堕落して楽しい、ってことはなくて、身体的に精神的になんの負荷もないから楽、ただそれだけなのだ。痛みや不快から逃れたい。リセットしたいニュートラルになりたい、っていうときの回復手段としてはありだろうが、ずっとそこにいられる精神構造になっていない。罪悪感がつきまとうし、結局そのことで自分の糧にはなっていないと考えてしまうからだ。

そういう意味で、堕落しきれないのが僕だ。

坂口安吾の著を読んでいると、堕落するにしても筋が通っていないといけない。ようは精神が嘘をつかずにいられるか、ということだ。それは一つの才能だ。

精神に嘘をつかず、きっぱりと態度を決めて行動する。中途半端が一番卑しくいけないのだという。

罪悪感を感じる時点で、僕には堕落しきれる才能はない。

ならば自分にとっての善はなんだろうか。

少なくとも今の自分にとっては、人に優しく、人に感謝されるような、人のためになる行動を取ること(そこに感謝を求めるのではなく)、が一つの善なのではないだろうか。

自分にとっての善。腹落ちするような、自分の善。自問自答。