小説を

久しぶりに読む。

以前は多少読んでいたのだけど、手に取るものがビジネス書であることが多くなっていた。

自分自身のスキル不足だったり能力不足だったり、いろいろと焦りの気持ちから自己啓発本を手に取る回数が年々多くなっている。

社会人最初の頃は、良くも悪くも世間知らずで世界の中心は自分だ、とまでは思っていなくても自分の可能性に期待していて、無根拠にも人生の道のりは明るいと信じていた。

そして実はいまもそれは続いているのだが、新人の頃はできないことが当たり前で、これからどんどんできていくのだという無邪気な気持ちが大きかった。それに比べていまは、できないことへの焦りが大きく、それに対して頑張ろうという気持ちと、自分への諦めの気持ちの間で右往左往している。

そうした焦りから、手当たりしだいに自己啓発を手にとるようになったのだが、振り返れば手にしたものは少ない。なぜならそこに、覚悟と強い目的意識が伴わないからだ。

この焦りがないころ、無邪気な気持ちが大きい頃は、自己啓発なんて自分がない人間が読むような軟弱な読み物だ、ケッ、という斜に構えた考えだった。自分がやるべきことは自分で作るものだし、自分の経験で自分ができていくのだから、そんなものに答えを求めるなんて間違っているし、読んでも自分には役立たない、自分を見失ったやつが読むような本だ、とさえ思っていた。

そうした考えに現実が追いつかなかったのか、気づいたらそうした強者の理論を唱える側の人間ではないことに気付かされる現実にいた。

そうした本を手にとっているのだ。

自分に絶望したのはいつだっただろうか。ゆっくりと人は死んでいくことを知ったのはいつだっただか。

僕は強い人間なんかじゃなかった。

弱く、自分の殻をなかなか破れずにいる人間だった。

かといって、そうした自分を認められず諦めることもできない、未練たらしい人間でもあった。

だから、より良くなるために、少しでも学びを"感じたい"がために、そうした本を手に取るのだ。

 

一方、そうした状況に疲れるのも事実で、ビジネス書ばかり読んでいると無味乾燥した気持ちになる。

小説は、スキルアップとかより良く、とかそういうことは一切ない。いや勿論そういう読み方もできるのだが、まず先にくるのは、面白いかどうかだ。

小説を読めば、それが全くの駄作だったり興味が持てないものでなければ、その世界に入り込める。文字を追っているといつのまにか頭の中で場面が浮かんでくるし、登場人物の表情や心の機微も想像できる。

無味乾燥した心を湿らせてくれるのは、小説だったり映画だったり、何かの物語だと思う。

だから、心の潤いが足りてないなぁ、と思い始めたら、小説を読むことにしている。

読むことにしている、のだけど実際手に取るまでには時間がかかる。というのも、本を読むにも時間を取るから、その時間が惜しくなる、という悪循環にいたりするからだ。

それでも、一度読んで面白さを味わえば、その体験の価値を再認識する。

そうして僕はまた、懐かしさを感じながら、少し前の自分に戻れるのだ。

 

僕にとって小説を読むことは、そういう時間を過ごすことだったりする。