心の仮面、ペルソナ。
小学生の頃、同じ幼稚園に通っていて親同士も交流のあるような男友達がいて、幼稚園お頃にそこまで仲良しではなかったものの、でも小学生の頃にはそれなりに仲が良かった感はあって、家に遊びに行ったこともある、まあそれくらいの仲良さの間柄。
その子が大切にしているものを、怖くて有名な先輩に隠されてそれを探す、みたいな状況があって、その友達は泣いてしまったように記憶していて、僕は正義に燃えてその先輩に、そんなことをするのはやめてほしい、というようなことを本気で訴えて、そうすると実はゲームだったのだ、本気になるなよ、みたいなことになって、その友達もそれを知っていたのか、あるいはゲームだった、ということにして納得したのか、今では良くわからないけど、とにかく当時の僕は、なんだか一人で盛り上がってしまい空回りしたように感じられて急に冷めた、という記憶がある。
つまり、みんなの前で、自分の本音をさらけ出す、自分の本当の姿を見せる、ということに僕は抵抗を感じるのは、こうした原体験があるからかもしれない。
みんなと仲良くやる、多くの場合は自分の本音を隠しながら、というよりも、どうしたら調和を保ち物事を前に進めていけるだろう、というようなことを考える。バランスを整えながら前に進む。そのことでみんなが納得できる、そうした状況が僕にとってのベターなのだ。
もちろん、その前提としては、正しいこと、あるいは良いことをする、ということがある。悪いことをする、間違ったことをする、あるいは行動が必要なのに何も取り組まないことを容認する、ということを受け入れるという意味ではない。
僕の本音を隠すときって、どんなときだろう。
そもそも僕は、自分の本音に気づきにくいのだと思う様になった。自分へのセンサーが鈍い。自分の気持ちに蓋をして状況を優先しがち。自分の本音ってどこにあるの?
自分の本音よりも、状況が良くなることをとる。状況が良くなることで、自分もそれで良いと考えるから。
うーん、ちょっとこれは違うか?
自分の本音があって、でも理性で考えてこっちを優先すべきと判断したらそうするのだから、別に本音よりも状況を選択することがあるのは自然だ。
なので、自分の本音を軽んじることが多い、と言い換えた方がより適切かな。
そしてその本音がうっすらとしか受信できないから、自分に対して鈍感なのだ。
自分ってどういう人間?自分を一言でいうと何?
自分に敏感、自分観察、自分をよりよく知っていて、自分の理解に自身があれば、胸を張って自分を表現できるはず。
自信のない自分というのは、字のごとく、自分を信じていないということだ。
信じる自分を知ることからはじめる必要がある。
何のために?
自分の人生を生きるために。
何でそれが必要なの?
一度きりの人生、二度とこの人生は得られない。人生というものを大切に生きること、味わって生きるということが、唯一出来ることではないだろうか。
人生を大切に生きるってどういうこと?
人生を生きるのは自分であり、その自分というものを大切にし、この自分を通して「自分の人生を生きた」と言えること。
そもそも自分の人生って何?
一生を通してどんな自分になって行くのか、自分はどのような人生を歩んで、どこに行くのかを楽しむこと。人生は旅だから。
人生は旅なんだ?
そう、人生は旅。行く先々で発見があり、出会いがあり、別れがある。それらすべてが糧であり、自分というものを形成していく。旅の中で、自分を発見していく。
そう、発見なのだ。発見にはいつも新鮮さがある。その新鮮さのなかに、人生の妙がある。好奇心、ワクワク、驚き、腑に落ちる、新しいことにつながる、などなど。
発見は、楽しい。
発見しよう。そう、発見がテーマだ。
人生という旅を通して、自分を発見すること。
自分のために自分を発見する、それが世のため人のためになること。
ブログ、写真、コーチング。
そういうことなのかなぁ、と最近考える。