カウンセリングの一端

僕としては。

計画的なものではなく、無計画なところで起こる偶然の出来事に喜びを感じる。

アドリブでやった出来事、無意識的なところで発生したこと、そうしたことが、良い結果に繋がった場合に、喜びが倍増されるというか。

自分で決めた目標が達成した時の喜びは実は小さくて、むしろ自分ではコントロールできないところで発生した喜びの方が大きい気がする。

そうした偶然の輝きの瞬間があるからこそ、人生は面白いんじゃないか、とすら思う。

ストレングスファインダー的には、適応性と運命思考の掛け算なのかもしれない。

そんな話を嫁さんにしたら、それは自分ではなく外側に価値を見出しているのかもしれない、という視点を持った。

嫁さんは、自分で決めた目標を達成したことに喜びを感じるタイプであり、もちろん偶然の喜びもあり他の人が喜んでいることも嬉しいし、と、喜びが多い。その分悲しみも同じくらい多い。

で、そこから思うのは、僕は自分コントロールの喜びというのが相対的に低くて、自分コントロール外の喜びの方が大きいと言うことだ。

自分で決めたことはできて当たり前、的な傾向があるのかもしれない。勿論、出来ていないことは沢山あるのだけど。

こうした、自分に関する発見が面白いと思うのは、自分に対する感度が低いからではないか、と思う様になった。すると、プロのカウンセリングとの対話で、自分を発見する、ということが良いかもしれないとアドバイスしくてれた嫁さん。なるほどです。。

 

一方、コーチングを学び始めてから、自分のクセを認識するとか客観視するとか、は少しできる様になり始めた気がしている。その中で、昨日書いた記事としての自分の深掘りというのもある。

で、やっぱり自分は、「人から関心を向けられない」ということが嫌なんだ、ということを改めて思う。自分のいないところで話が進むのが嫌なのだ。そこに自分の存在も確かにあって、話の中に含まれる、輪の内にいる、というのが当たり前であってほしいと思うのだ。一方で、自分は飽きやすく反応も薄いし浅いだろうと思うので、関心を向けられる努力というものをしていない。

すると、自分はこのまま自然体としてあり、その上で関心を向けられ続ける存在でありたい、というのが僕の願望であることが現れてくる。

もう少し簡単にいうと、自分らしいことがそのまま人に僕と関わっていたいと思わせる、そんな存在でありたい、ということだ。

 

ならば。

磨き続ける必要がある。自分という人間を魅力に溢れた存在にし続けること。

どんな魅力か?

人に好かれ求められる存在。エッセンシャルな存在。無くてはならない存在。

 

ここまで書いて思い出すのは、小学生の書道の字、だ。

一文字、何かを書くのがテーマだった。何を書いたか。

「枢」

モノゴトのかなめ、でありたいという想い。無くてはならないもの。

無いと立ち行かないもの。すべての前提。

 

関心を向けられないことへの不安。それは母親が関わっているのだと思う。そしてそのことは僕の中では埋まらない穴になってしまっている。本当は埋まっているはずなのだけど、埋まり切らない、虚空の穴。

この虚空を埋めるため、世の中から必要とされたいという渇望。

そこに当てはまる、枢というキーワード。

だからといって、どっぷり人と人の関わりに浸かりたいというわけではない。一人の時間が必要だし、ずっと一緒にいると疲れる。基本的にプライベートの時間が大切だ。

このバランス。

人には必要とされたいのだけど、それは自分が望むタイミングと時間の範囲でよくて、常には無理だし、距離感も必要。そうした矛盾だったり自分勝手さが僕にはある。

 

ではそれを乗り越えてどこへ向かうのか?

昨日僕は、「人と人とが支え合うのが当たり前の世の中にする」と書いた。

僕の目的は本当にそこなのだろうか?

支え合うという中に、僕が枢としていることが前提では無いか。関わり合いの中に、僕という存在がしっかりいないと、僕は不安になるのではないか?

 

すると、僕を中心とした目的を置くことが必要になる。

僕の虚空すら補いかつその世界からコピエルニクス的回転する世界とは何だろう。

そんなものはないのかもしれない。

折り合いをつけるのか、自分で発見するのか。

いずれにしても、その一助としてカウンセリングという手段に興味が湧いてきたのだ。