志を持つこと、そのずっと手前の地点から

人間関係で悩んでいる。人の輪に積極的に入れない性分で、自分勝手にいじける性格がある。輪には入りたいのだけど、それによって干渉もあまりされたくなくて、すると自分が中心人物で場を支配できると、干渉も受けにくいのだが、そうした力量もないし、そもそもそういうことをしたい、というわけでもない。その気持ちは、輪の中心になる人物との比較による優劣から生じる感情だ。つまり、その人物の方が自分よりも能力も魅力も優っている、ということを自分は認めている。それはそれで良いのだけど、自分よりも能力の高い彼に人の興味関心は向き、彼が好かれる。上手に人付き合いする。話もうまい。それに比べて自分は話も下手だし引き出しも少ない。だから興味関心をそんなに引き出せない。よって彼ほど人として好かれる感じはしない。

こういう比較をすることで、自分の劣等感が刺激され負の感情を再生産し続ける。

更にだ。

彼は自分の方が能力が上であることを公には認めないが本音では思っている節があり、たまに性根の悪さが覗き、小馬鹿にする態度をとる。そしてマウンティングをするかのように、彼の言動から悪意を感じ取る場合もあるのだ。

しかし、これは被害妄想かもしれない。自分の負の感情から出てくる負の妄想。

しかし、完全に否定はできないのではないか。

例えば、彼と正面切ってこのことで話をするか。そうした勇気はない。口も達者で議論になったら言い負けるだけだ。勝ち負けではないのだけど、言い負けて結局劣等感に浸ることになりそう。

まあこうしたネガティブなスパイラルにたまに陥るのだけど、時間とともに忘れるのが僕の良いところだ。

 

で、最近これでまた悩むことがあった。僕に対して言ったことと、実際にやっていることは正反対、ということが2、3続いた。なんて言葉が軽いんだ、と嫌悪する。あるいは僕に投げかける言葉が軽いというのは、僕の扱いが軽い現れである、とも。こう言うと、彼にもっと大切にされたい、というようにも聞こえるな。もちろん、昨日今日の関係ではないのだから、そうは思う。そしてそれは彼だけではなく、友人には等しく思うことだとも思う。

それだけでなく、なんだか僕の企画を利用して横槍を入れられた様な気分になる出来事もあった。一言声をかけるのでもなく、何やら勝手に展開して上乗りしてくる、まさにマウンティングかのような。

 

とまぁ、愚痴っぽくなってきたのでいけない。要は、こうしたことに囚われたくないのにどうしても囚われてしまうのが問題だ。

こういう時に、どう対処したら良いのだろう?

 

すると、内村鑑三にまつわる本を今日読んだ。

そこで何か目を見開かされた気がした。そこでは、この世界からさるとき、少しでも世の中を良くして去りたい。そのために遺すものの話を展開している。

代表的日本人という本を貰ったことを思い出した。そこにあるのは、歴史上の五人の偉人を英語で紹介した本である。そこには志を持った人の生涯がつづられている。

そう、世の中を良くする。自分の価値観を信じ、志をもって、それぞ実践する。

こう考えた時に、私心にまみれていた自分にはたと気づいた。

なんて小さな世界しか見ていなかったんだろう。目が外に向いた瞬間だ。

確かに、自分を観察することを意識している。自分に関心を持ち、自分の感情を拾う様にしている。その弊害として、悶々と負の感情に囚われてしまう場合がある。そうすると、精神が弱ってしまう。

そんなときは、目を外に向けた方が良い。私は何がしたいのか。

自分を発見することを通して、世の中をよくしていきたい、と以前のブログに書いた。

自分を発見することの楽しさ。

では志はなんだろう。根ざす価値観とは何か。

 

悩んでいる人に手を差し伸べたい。

困っている人の手助けをしたい。

話をして、その人を発見し、そうして自分を発見する。

世の中をよくするには、人を元気にする必要がある。

人に元気を与えたい。人に感動を与えたい。

活力が湧いてくる様な、そうした何かを与えられる人間でいたい。

生きている喜びを与えられること。そうした瞬間を増やすこと。

 

内村鑑三のその本には、資産を遺す、事業を遺す、思想を遺す、人を育てて遺す、というようなことと、よく生きること、が書かれている。

人を育てる。そのために、思想を言語化し、それを事業として行い、世の中に活力を増やす。

そういうことをしている。するために歩いている。

それが志を持つこと、そのずっと手前の、いまの心境だ。