久しぶりに旧友たちとオンライン呑みをした。
歩い意味毎回、のことなのだが、ダメ出しをしてくる男がいる。
彼は社会的にも成功をしていて仕事もできるやつなので、彼の意見を否定できるようなことは私的にもない。というか反論できるネタもないのだ。とても正論だと思ってしまうから。
どういうダメ出しか、というと、いま私が所属している会社の将来性に対する疑問、だ。
彼は私の仕事がこの先5年、いや3年は会社の事業として継続するかは疑問を持っており、だからこそ早く転職した方が良いと言ってくる。
会社の戦略自体が理解できず、だからこそ未来が描けないため、私に対して環境を変えた方が良いと忠告してくるわけだ。
私はというと、会社の将来に対して楽観視しているわけではなく、かといってそこまで悲観もしておらず、とはいえ今の仕事がこのままの規模で継続するとも思っておらず、縮小していくのだろうな、とは思う。だから彼に対して反論もできないのだ。
そこで問題なのは、そうした時に私自身がキャリアをこの先どう考えているのか、というところだ。
先々を考えて先細りしていった時に、この先自分がどうしていくのか。仕事、ひいては生活や家族をどう支えていくつもりなのか、その責務をどう全うするのか、ということだ。これに対して私の答えは、ない。先を見据えていま行動しているということがないからだ。もっと言えば、先を考えた時に自分が何をしたいか、というものが明確にないからだ。
この問題はずっと続いている。
彼としては、考えても答えがでないことは多くある。1日考えて答えがでないことはどれだけ時間をかけても答えが出ないし、考え続けること自体は時間の無駄だと考えるから、答えは1日の内に出し、出した答えで行動あるのみ、という。
全くもって言っていることはわかる。
とすると、言動一致できない状況が自分の内にあるわけだ。
それは何かというと、外の世界を知らないから、だろう。
じゃあ外の世界を知ったら変わるのか?それはわからない。
少なくとも外の世界を知る努力をしていないし、外の世界をどう知ればいいか、も分かっていない。
じゃあそれをどうするのか。彼としてはいろんな人と話す、ということを言っている。社外の人、そのと世界の人と話をして世界を広げる、ということをする。
ああ、とても当たり前のことを言っているな。
私はそういうことをこれまでしてこなかった。いや、分かっているつもり、想像できる範囲、でしか考えていなかった。
自分の狭い世界でしかものを考えていないのだなと。
茹でガエルのように死んでいくのが私なのだろうか。
自分のキャリアは与えられるものではなく、自分で作るものだ。
そう分かってはいるものの、そのために自分は何をしているのだろう。
と、書いてきてこれは社会的に成功している旧友との比較で考えている内容だ。
煽られて始めるようなことでもない。
実際に、妻としてはお金だけが幸せではなく、いまあるサラリーの有難さというものに感謝をしている、という言葉を聞くと、足元にある幸せというものの有難みを改めて認識させられる。
だからこのままで良い、という話ではない。
自らのキャリアは自らで作るものとして、自分はどのようなキャリアを築きたいのか?
誰かに見せるキャリアを築きたい、作りたい...というものではないよな。
自分が納得できるキャリアというのはどういうものか。
それは自分の仕事が誇れることをしていること、それの地続きだろう。
そうだとしたら、いまの自分の仕事は誇れることができているのか、という問いが生まれる。
そして、その結果がキャリアとなるならば、それは何か他のものへと繋がっていくのだろうか。
他のものへとつながるキャリアを選択するのであれば、それは戦略的なやり方なのだろう。
しかし私自身はそういうやり方をこれまでしてこなかったな、と思う。
自分はどうしたいのか。
サラリーマンであれば、どこの組織に属しているか、で社会的に見られる。
何をしているか、はその次なのが世間的なものかもしれない。
私自身はどちらが重要なのだろう。どちらも重要なのだ、という答えにはなるのだけど、盛者必衰の響きあり、というように、どこにいても安心だというのは究極的にないのだろう。
そうであるのなら、自分の価値をいかに高めるか、にはなるよなと。
そのために、いま自分は何ができるのだろう。
価値、とは自分にとっての価値と、他人にとっての価値、がある。
社会で働くというのはどちらも重要だが、自分と他人との価値が一致するのなら、それは幸せなことなのだろう。
今自分がやってきた、やっている、仕事として、それは一体何になるのだろう。