歳を重ねると誕生日を迎えたことの感慨というものはそれほど感じなくなる。
また一つ歳を重ねたか、というくらいで、特別な気持ちになることはない。
ただ、周りからおめでとうと言ってくれる日でもあり、その点は有難い日だ。
今年は妻と子供と過ごす初めての年だ。これまで子供のいない誕生日は、妻と二人で美味しいものを、家か外かで食べるというものだった。子供ができると、夜二人で外食、というのは難しくなるので、出前を取って済ませた。
子供が寝付きやすいように、子供を挟んで三人で寝転びながら愛情溢れる時間を過ごす。
このささやかだけど確かな愛に包まれた日常の時間。
これをすると子供が寝付きやすいということを発見してからは最近はよくやるのだ。そしてこれは親にとっても愛おしい時間だ。子供の成長は早く、こうした時間が作れるのもあっという間に過ぎ去っていくのかもしれない。
そんな事を思うと、いまこうしていられるのも、いつか振り返った時に束の間と思えることなのかもしれない。
だから、いまの時間を大切にしたい。家族との時間を大切にしたい。
38歳という年齢になり、今の自分にとって何が大切なのかは明確だ。
どういう年にしたいか、そしてどういう道を歩んでいきたいか。
いま心のうちには、「一隅を照らす」という言葉が置かれている。
この言葉をよくよく噛み締めたい。
ここのところ私は私心に塗れ、心の中で相手を批判し、自分の思うようにいかないことに怒り嘆き疲れ、匙を投げようとする気分の時もあった。自分の中の指針、目標というものを失っていたのだ。
いま、精神科医である中村恒子さんの「うまことやる習慣」という本を読み、そこから「一隅を照らす」という言葉を思い出した。
何かこう、見失い散らかっていた視界から、靄がすうっと消え、清らかな気持ちになったのだ。
高潔さ、というのだろうか。立派に生きたい自分がいるが、立派という定義に含まれるのは完璧な自分像、だ。優秀でブレずに良い仕事をする自分像。そこには何でもできることが含まれているし、常に自分が正しいということも含まれている。
しかし、現実はそうではない。そのギャップに苦しみ失望し、部分的には周りの要因に原因があると結びつけていた。自分の理想通りにならないことに苦しんでいたのだ。
しかし、これは自分を苦しめている行為に他ならなかった。
もっと自分を楽にしてあげる。自分らしく生きれるように、無駄な力を抜いて、物事にあたっていく。そのとき、自分のために動くのではなく、まずは他人のために動く。
自分のために動くと私心で曇る。苦しくなる。
自分らしく良い仕事を周りのためにしていく。
そこから始めていこう。
38を迎えて、いま大切なものへの有り難みと共に、初心を思い出したように思う、そんな日だ。