初めての育児

初めての育児をしていると、色々な発見がある。

分からないことだらかで試行錯誤の毎日で、かつ昼夜問わず面倒を見る必要があるので、常に寝不足感が拭えない。
そうは言いながらも、少しずつ対応に慣れてくるところは慣れてきて、少しずつ改善しながらも、コントロールできないところは成るように成る、という境地に近づきつつある。

子供の成長は日に日に分かってくるのだけど、ここではむしろ自分の変化に注目したい。

子供とともに親も成長する、というのはよく聞く話であるが、新生児でかつまだ1ヶ月も経っていない段階で、育児をしていく中で大きな発見があった。

それは、「愛情」についてだ。

 

赤ちゃんは、泣くことでしか意思を表現できない。それも、お腹が減った、あるいは不快である、くらいのサインだ。
特に空腹時のMAXギャン泣きは凄まじく、かなりのプレッシャーを受ける。最初遭遇したときは衝撃的だったが、今でも慣れない。
あまり続くのストレスも感じるのだが、そこに自分の感情の中に「苛立ち」のようなものを発見する。
それはなぜかというと、けたたましい問答無用のサイレンが単純に耳障りと感じるのと、オムツを変えていることなんてお構いなしにジタバタ作業を邪魔しながら激しく主張することが不快に感じるのと、自分では何もできず人にやってもらう他ない「無力さ」というところに腹が立つ、のだ。
赤ちゃんなので当然何もできないことが当たり前だし、泣いてサインを出さないと死活問題になる。
そういうことを分かりつつも、その傍若無人かつ絶対的に自己の欲望を主張することに腹が立つ瞬間がある。

こう思う反面、そう思う自分の幼稚さにも気づく。この小さく周りの助けがないと生きられない自分の幼子に対して、大人の道理を持ち出してどうするのだ、と。

もう一つ気づいたことがある。
それはある日ほんの些細な妻の言動に対して腹が立ったことがあるのだが、このときも自分の感情を深堀りしてみた。するとそこに隠れていたのは、「自分のことを軽んじているのではないか」という自尊心の傷つきだった。

これに気づいた時、子供に対する腹立ちを思い出してみると、あることが浮かび上がってきた。

それは、「自分を大切にして欲しい、自分を一番に優先して欲しい」という感情だ。


まるで赤ちゃんが泣くときのように、自分の自尊心が傷つくのは、自分のことが大切にされていない、と感じられた時なのだ。なぜなら赤ちゃんは寂しい、構って欲しい、という悲しみの感情を不快と感じ、泣くのだろうから。

自分の感情を観察してみると、このように得心できた。かなり新鮮な体験だった。

では実際、自分が軽んじられているか、大切にされていないのか、というとそうしたことは無いわけだ。
すると問題は、私が過敏に受け取ってしまっている、という点にあると言える。

これは何も家庭内だけの話ではなく、職場でも友人関係でも、人間関係全てに当てはめられることだ。
明らかに攻撃的なものを除けば、自分が意図的に軽んじられる、という場面は殆どないと言って差し支えないだろう。
そのため、私の中でそういうバイヤスが働いてしまうことがある、ということをよくよく自覚しておき、実際にそう感じたときの対処法を考えておけば良いのだ。

 

思考はそこで終わらず、ではなぜそうした過敏にバイアスがかかってしまうのだろう、と考えて思い至るのは、やはり幼少期の頃なのだろう。これは私の勝手な推測だが、幼少期の頃に親の愛情を十分に受け取れなかったのではないだろうか。例えば、どんなにギャン泣きしても、親はこちらを振り向いてくれなかった、そうしたことが続いたのではないだろうか。その結果、無意識に「大切にされたい」というような欲求が働いてしまうのではないか。

このあたり、愛着障害というキーワードがあり、それでいくと「回避型 愛着スタイル」に近しいようだ。自己開示がなかなかできないのも、それに由来しているのだろうか。
自己診断的には障害、という程度まではいかないが、その傾向はありそうだな、と思う。というか以前もこのキーワードには行き着いていたのだけど、その結果だけ知ってたいというのもあり、忘れていた。今回は自分の感情を観察し深堀りするというプロセスを経たことで、腹落ちできた。

 

長々と書いたが、つまりは育児というのは、なんと重要な時期なのだろう、と思わずにはいられないのだ。

泣こうがわめこうが、親は子の絶対的な味方であり安心を与える存在であり、そこには「愛情」が注がれている。適切な愛情をしっかりと与えることが、いま自分に必要なことであり、愛情を与えるということそれ自体が、私にとっても一つ修行になるだろう。

周囲に恥じることなく愛情表現することは、自己開示に等しいのだから。