重い決断の取り扱い

とある問題について判断しなければいけないことがあった。

ある程度判断はできるが、本当にそうか決め手にかける、あるいは自信がない。
だから決断ができない。NOと言えない。

チームの誰も、YESともNOとも言えず、ただ他の事例から大丈夫そうに見えるから、大丈夫なのではないか、というざっくりとした空気が漂っていた。

それに対してモヤモヤをしていたが、私自身も強くは言えないかった。何故なら根拠を持っていないから。
論理的に考えればおかしい、とおもうものはあるのだが、そのロジックの材料が十分に提供されていないから、歯切れが悪い。だから判断にも自信が持てない。

それをどうにかするために、自ら積極的に動いたかといえばNOだ。

状況は、他の権限の高い立場の人から言われ、ごく当たり前のことを理由にNOへ進んだ。
言われてしまったので、「動かざるを得ない」という状況になったというのが正しい。

これは果たしてあるべき姿なのだろうか。

振り返って思う点は以下だ:

  • 自信を持って説明する、賛成/反対を主張する意見を持てなかった。
  • そのための努力が十分ではなかった。
  • 他の権限高い立場の人の意見に従った。つまりリスクを転嫁/回避した。

リスクを避ける、というのが根本の原因だろう。
NOと言える、おかしいと言える、そういう発言をしたことに対するリスクを背負えないと思ってしまうからだ。

自分でリスクを取ってでも、決断ができることが、成長になるのかも知れない。

 

複数の判断から、どの行動を選択するかを決めることを決断と呼ぶ。
決断が発生したのは、他の権限の高い人に言われたから、というのがきっかけだ。(そのきっかけを作ったのは私だけど)

上司の立場から見たら、部下の意見が弱いため、決断する根拠にならない。
そのため、これはやはり部下側である私の反省点だろう。
もっと言えば、その確認を人任せにしてのらりくらりやってきてしまったことに問題があったのだ。
ギリギリ結果オーライなのかもしれないが、もっと準備段階でできることがあったのは事実だろう。

 

まず技術的な判断を論理立ててしっかりと行うこと。
その上で、状況的な判断を加味すること。
技術的な判断と状況的な判断を区別した方が良いと思った事例であった。

 

38

歳を重ねると誕生日を迎えたことの感慨というものはそれほど感じなくなる。

また一つ歳を重ねたか、というくらいで、特別な気持ちになることはない。

 

ただ、周りからおめでとうと言ってくれる日でもあり、その点は有難い日だ。

今年は妻と子供と過ごす初めての年だ。これまで子供のいない誕生日は、妻と二人で美味しいものを、家か外かで食べるというものだった。子供ができると、夜二人で外食、というのは難しくなるので、出前を取って済ませた。

子供が寝付きやすいように、子供を挟んで三人で寝転びながら愛情溢れる時間を過ごす。

このささやかだけど確かな愛に包まれた日常の時間。

これをすると子供が寝付きやすいということを発見してからは最近はよくやるのだ。そしてこれは親にとっても愛おしい時間だ。子供の成長は早く、こうした時間が作れるのもあっという間に過ぎ去っていくのかもしれない。

そんな事を思うと、いまこうしていられるのも、いつか振り返った時に束の間と思えることなのかもしれない。

だから、いまの時間を大切にしたい。家族との時間を大切にしたい。

38歳という年齢になり、今の自分にとって何が大切なのかは明確だ。

どういう年にしたいか、そしてどういう道を歩んでいきたいか。

 

いま心のうちには、「一隅を照らす」という言葉が置かれている。

この言葉をよくよく噛み締めたい。

ここのところ私は私心に塗れ、心の中で相手を批判し、自分の思うようにいかないことに怒り嘆き疲れ、匙を投げようとする気分の時もあった。自分の中の指針、目標というものを失っていたのだ。

いま、精神科医である中村恒子さんの「うまことやる習慣」という本を読み、そこから「一隅を照らす」という言葉を思い出した。

何かこう、見失い散らかっていた視界から、靄がすうっと消え、清らかな気持ちになったのだ。

高潔さ、というのだろうか。立派に生きたい自分がいるが、立派という定義に含まれるのは完璧な自分像、だ。優秀でブレずに良い仕事をする自分像。そこには何でもできることが含まれているし、常に自分が正しいということも含まれている。

しかし、現実はそうではない。そのギャップに苦しみ失望し、部分的には周りの要因に原因があると結びつけていた。自分の理想通りにならないことに苦しんでいたのだ。

しかし、これは自分を苦しめている行為に他ならなかった。

もっと自分を楽にしてあげる。自分らしく生きれるように、無駄な力を抜いて、物事にあたっていく。そのとき、自分のために動くのではなく、まずは他人のために動く。
自分のために動くと私心で曇る。苦しくなる。
自分らしく良い仕事を周りのためにしていく。

そこから始めていこう。

38を迎えて、いま大切なものへの有り難みと共に、初心を思い出したように思う、そんな日だ。

ぶり返し

また、ぶり返してきた。仕事への取り組み方、当事者意識、責任感、プロ意識、向上心。

自分の中の「こうあるべき」「こうした方が良い」という姿があり、そことのギャップのあるメンバーの行動/行動のなさ、にモヤモヤする。

そして、口を出すと反発される。相手にこうした方が良いのでは、という提案をしても、自分のやり方にケチをつけられたと思い反抗してくるか、スルーされる。

去年さんざんそれを感じて、距離を置き放任した。それがうまくいった。自分が関わらない世界ならそれはそれで回るのだと。

今年は自分のこだわり、気づく点に引っ張られて口を出しつつある。そして今日一人から不満が出た。

 

自分を正にして会話すると、うまくいかない。
相手を信頼していない、自分は正しく相手は間違っている、が無意識にあるとうまくいかない。

 

こういうことがあると、このチームで頑張る、とやはり思い切れない。
自分の対応に問題がない、とは言わない。が、気持ちとして一緒の方向を向いてない事を感じるし、これから向くと思えない。

この点については、直接メンバーらと会話しないと確認できない点だ。

しかし会話しても向くと信じきれない。なぜなら人生のステージが異なるメンバーがコアであり、彼らはつまるところ自分のことしか考えていないし、仕事に対して消極的な態度は変わらないし、これから変わろうという意識が起きるとも思えない。物事を良くしていく、という前向きな気持ちが起きるのか。終わりゆくなかで、今更頑張ろうという動機がなかなか起きないと想像している。

これは全て自分の想像だから、直接会話しないと分からない。

一方で、それは僕がやりたいことであって、僕がやれば良いと言われてしまう時に、なんと言えるだろうか。

「お客様の問題を解決する」ことと「お客様の問題を未然に防ぐこと」
これは「お客様のビジネスの課題をサポートする」ことだ。
そのための仕事であり、そのためにスムーズに課題解決をしていく必要がある。

それを理解し、必要性を納得するだろうか。
お客様のビジネスの課題が我々の仕事にどう結びついているか。
そこは具体的にイメージできるものを提示する必要がありそうだ。

ではそうこうして自分の業務の必要性に納得した時に、あるいは認識はしていた場合、次に行動に結びつくのだろうか。これも実際に発生してみないと分からないことだ。

さて、自分はそれをチームにするほどの熱量があるのか。
チームを信じて、ぶつかる覚悟はあるのか。

私は私自身を信じているのか。

 

どんな時に「仕事したな」と感じるか

今日はささやかな満足を感じた。ちょっと良い仕事したかな、と思えること。

それは何かというと、終業後、周りのメンバーが仕事を終え、私も終えた後、他のチームで少し判断に困りそうな仕事が発生していた。そのチームをサポートする立場にあるが、彼ら自身で判断する、ということを見守ることもできた。しかし、すぐに終わりそうな内容でもあって、かつ他のメンバーは反応していない(もう終わっているので)ところ、私が手助けをした。

結果すぐ終わる内容で大変なこともなく完了し、お礼も言われた。

サポートする立場なので、それも仕事の内ではあるのだが、最後に少し良い気分で仕事を終える事ができた。

なぜなのか、振り返ってみよう。

  • 自分の力で助ける事ができた。
  • 軽々とサクッと解決できた。
  • さらに先にいる部署のことも考えてアドバイスも添えた。
  • 自分らしい気配りや丁寧な仕事をした。

自分のやり方が正解だと思っているからこそ、他のメンバーにも同じことをしてもらいたい、と思う自分がいる。
しかし、自分のやり方が全てではないとも思うし、自分のやり方を正として相手に押し付けたとき、相手がどう思うか。自分ならイラッとする。

 

ここで少し話は脱線するが、人は何を基準に情報を受け取るか/記憶するかというと、要は「好き」か「嫌いか」が基準らしい。
脳にはA10神経というものがあり、何かを記憶するときや、何かをするときに、「良い気持ちになる」ことがより「やる気」を引き起こすらしい。

A10神経」には、私たちが何かをしてうまくいったときに、いい気持ちになる仕組みがあります。
 知的なことを行っていると、A10神経が刺激され、脳内麻薬物質が出て「もっとがんばろう!」という気分になるのです。

日本学術会議_おもしろ情報館

 

そのため、相手を無理強いしたり高圧的に接したりすると、「嫌い」という感情を引き起こしてますますそれをしたくなくなるような気がする。
同じように、何かを知ろうとしたり学んだりするときに、苦手とか嫌いとかを先入観もって持つよりも、まずは好きになろうとすることがポイントなのかもしれない。

とは言え、無理に好きになる、というのも難しい話なので、「好きかも」と興味を持つ事が自分にできる事だろう。

「仕事したな」からはちょっとずれるけど、「良い仕事したな」と思える満足感は、「うまくいった」から「良い気分」になったことで生まれるものだ。

「うまくいく」ことの種は、「好きかも」という興味を持つ事から始まるのかもしれない。

 

 

 

そろそろ

2020年は新リーダーとして色んな気を配った。その結果それぞれの「変わらない」部分を目の当たりにしたし、どうにも上手くいかないことも経験したし、何より管理職の代行を経験してプレッシャーの日々を過ごした。リーダーシップに関しても学ぶ時間があり、それによって得られた収穫もあった年だ。

2021年はそれを実践した年でもあった。具体的にはメンバーへのフィードバック、承認欲求を満たすことや、メンバーそれぞれに任せる、ということを積極的に行った。適材適所で有機的に動けるようイメージしながら接し、一定の成果は見られた。

さて今年2022年はというと、結局のところ自分の観点なりこだわりなりを手放せずにいる。「どうしてこうやって動けないのか、なぜ受け身なのか」という他者への不満を募らせてしまう事が多い。昨年は手放す、ということをなるべく意識したが、どうにもそこを乗り越えられていない。

さらには、自分が思うチームのあり方であったり方向性について、メンバーと共有しきれていないことに不満があるし、共有したとしても、その実現のためにやっていこうよ、ということになる見込みは無さそうだ、という諦めが先行してしまう。

Face to Faceで主要メンバーにそのことを相談しようともした。しかしそういう時に限って大きな問題が発生してその機会が失われてしまったりする。その代わり、その問題にチームで連携して対応ができたことで、本当に必要な時に必要なことはできている、という確認ができたので、それでいいと思ったのだ。

しかし、日常に戻るとやはりもともとの燻り・不満が再燃する。

結局のところ、メンバーのことを信頼しきれていないのと、自分の思う通りにならないことへの不満という独りよがり感なところがある。

 

しかし一方で、先日違うチームのメンバーから、「かくあるべき」という議論があり、「あ、やっぱりそういう意識を持っている人はいるんだよな」という気づきにもなったのだ。

そのことで、仕事に対する意識について改めて「こうしていったほうがいいんじゃないの」という気持ちが蘇ってきている。

 

2021年、人に任せて、自分は後ろから、というスタンスを経験したが、辛い感じもあった。ああしたい、こうしたい、という自分のやり方をぐっと押さえること。しかし「かくあるべき」というところは伝わらないし実現しない。

2022年、チームをどうしたいか、というところについてもう一度チャレンジする必要があるだろうか。自分のwantや本音は何かと考えた時に、なかなか出てこないのだが、ずっとくすぶっているのは「メンバーそれぞれが主体的に関わり、より良いものを作っていく」という関係性と実現力のあるチームになること、がある。

相手のことを批判して否定していても何も変わらないし嫌なヤツになるだけである。

なりたい姿になったときのように自分自身は行動していく必要がある。そこに誰もついてこないなら、やはりそれまでだ。

八方塞がり?

どうにもこうにも気持ちが上向かない。

 

やはり普段いる環境に左右されやすいのだ自分は。

自らを向上させる、一人きりでも力強く。とは思ったりもするが、ストレングスファインダーの上位に適応性と共感性を上位に持っているので、どうしたっけ環境に適応する力の方が勝るし、その影響を受けやすいと思う。

環境のせいにしたいわけではないが、受ける影響が大きい。

自分から良い影響を与えて結果として良い方向に導くことは多少なりともできるかもしれないが、時間も能力も必要であるし、人を変えようと思い上がってもいけない。

そしてそれが自分のやりたいことでもない。自分が働きやすいように変える、という性質のものであり、自分を向上させるための環境、というわけでもない。

じゃあ僕はどうしたいのだというと、やはり環境を変えたいのだろう。

ではどんな環境を望むか?

  • 尊敬できる人がいる環境
  • お互いを尊敬し尊重し肯定できる環境
  • 建設的な議論ができる環境
  • メンバーが主体的で前向きで積極的に関わろうとする環境
  • 互いに助け合える環境
  • ワクワク面白い環境
  • 何かを作り上げる事ができる環境
  • 自由な環境
  • 将来性のある環境
  • 休みが取りやすい環境
  • 残業が少なくプライベートの時間が確保できる環境

 

周りがどんな人か、という点が大きい。

あと自分が楽しんで仕事ができるかというのと、プライベートが守られているか、というのも大きい。

今の環境が全く当てはまらないかというと、そうでもない。6〜7割は当てはまるだろう。

そうか、9割当てはまる環境に行きたいのか僕は。より高い満足を求めている。

しかし外からこれら全てが当てはまるかを判断するのは難しい。

むしろ自分は何をするかよりも、どのような環境で働くかをいま重視しているようなリストだと俯瞰できた。

 

逆に、いまそうではないという不満があるのだ。
そしてそれを自責というより他責にしている。自分の思うようにいかず感情的になっている。
しかし人は変わらない、とすると変えられるのは自分と環境だ。

さて、そこで自分はこの6〜7割環境を手放して、9割環境を見つける旅に出るか?
あるいは、マンネリ感からくる新しい環境への希求を実行に移す時か。
それともこの環境で自分を前向きにアップグレードできる変化を起こせるか。

行動でしか悩みは解決しないのだと何度も言い聞かせているのだが、安全地帯から動けない自分がいる。

守りに入っている。新しい環境、と言いながら、自分を向上させたい、と言いながらも、いまの自分と居場所を守っている。潜在的に変化を恐れている。

どこを見て仕事をするのか。どんな自分を望むのか。

どうにもこうにも、今の仕事における自分の未来像が描けないのだ。辛さが優先してしまう。楽しさが小さい。

have to が常に付き纏うからだ。そこを解決できていないし、仕事上それは常にそこにある。

使命感、それが色褪せてしまった。

自分の本音とwantを探した時、こんなにも自分は流れに乗ってきたんだなぁ、と振り返って思う。

この流れに乗り続けるのか、あるいは違う流れを起こすのか。起こしたいのか。それならばどんな流れか。

ぐるぐる。

とある休日

子供の成長というのはその時々にしか観察できない一過性のものなのだろう、と思っていてもその事の重大さは身に染みてはいないので分かってはいない。

それでも、自分では何もできない、生まれて数ヶ月のこの時期は、いま今しかない、いまが一番可愛い、というのはよく聞く言葉であり、そうなのかもしれない、と思うこともある。

夜な夜な、妻と二人でその日の子供が如何に可愛かったかをお互い振り返る時間。

これが習慣になっている。

思い返して改めて子供の可愛さを味わう時間。

その時は余裕がない場面もあるからこそ、こうして振り返って可愛さを再確認する時間によって愛着もまた強化される。

 

こう考えると、「いつ振り返るか」だけの話であって、「いつだって子供は可愛い」のが真実だと思う。

 

これからどんどん自我が育って生意気になって憎たらしくなって大変になっていくのかもしれない。

そうであってもそれもまた振り返りポイントの一つになりそうだ。

すると時間軸の違いであり、振り返れば「いつだって子供は可愛い」のだ。

そしてそこに一貫して大切なのは、「ある程度自分に余裕を持つこと」と「奥さんと子供、両方を大切にすること」だ。

 

自分の子供に愛情を持てない人がいる。

それはいろんな文脈があってのことかもしれない。

一方で自分は自分の子供が可愛いと感じる事ができている。

そう思える文脈に感謝したい。

 

そう思える休日に感謝したい。