テラハの花さんのこと

テラスハウスという番組に出演していた木村花さんが亡くなられた。

22才という若さだった。

経緯はいろいろとニュースで流れているのでそちらが詳しいが、原因はSNSでの誹謗中傷と言われている。

僕自身、番組は楽しく見ていた。

男女の共同生活で生まれる様々なコミュニケーションやイベント、それに突っ込みや感想を入れる芸能人。出来事への意見が、スタジオにいる芸能人の各々の視点から語られて、その切り口が面白かったり、スタジオの掛け合いが楽しかったりするのが魅力であった。

料理に例えると、共同生活空間とそこにいる男女のメンバーいう素材があり、その関係性から料理が出来上がり、スタジオにいる芸能人らからのコメントと掛け合いが料理に対するスパイスとなり、それぞれ違う味わいが出てくる、と僕は受け取っている。

テレビショーであるから、料理を楽しむのは視聴者なのではあるのだけど、視聴者のために素材がいるのではなく、素材はどんな料理がそこに生まれるのだろう、という未知への期待感と希望をもって入居してくるわけで、もちろん視聴者へのアピールがある場合もあるのだろうが、基本的には各々自分自身のためにそこで時間を過ごすのだ。

一方、料理に対してやれ美味しくないだの、やれこうしろだのと、不平不満を述べる人たちがいる。あろうことか、素材に対して直接暴言を吐く人々もいる。

あなた方はお客様ではないし、そうした態度に出る人々はそもそもお客様足りえない。

マナーというものがこの世には存在するからだ。

SNS上でもそうだ。指の操作で世界中様々な人たちとメッセージをやり取りすることができる今日、どこのどんな人かあったこともない人から罵詈雑言を浴びせられる恐怖。

対面で同じような言動を取るだろうか。

面と向かって暴力的な言葉を放つことができるだろうか。

そもそもなぜあなたはそんなことができるのか。

あなたはそれを言うだけの相応しい理由を持ち合わせているのだろうか。

僕はそうは思わない。人格否定する言葉を使っていいはずがない。

人を傷つけるのは、拳でも凶器でもなく言葉であってもそれは可能なのだ。

人格否定とは、相手の内側を切り刻むような暴力行為だ。

暴力行為は、許されて良いものではない、故に人格否定する言葉を使ってはいけない。

マナーを守れない者はその場所から去ってもらう必要があるし、インターネットに欠落しているのはそうした倫理観だと思う。

 

違う視点で考えたとき、料理を提供する番組サイドの評価はどうだろう。

あるいは芸能人の言動は。

彼らに対して評価できるほど僕自身が偉いわけでもない。一視聴者として楽しんでいた事実がある。確かに攻撃力がある言動もあったが、それをスパイスとして受け入れていたのは他ならぬ僕自身なのだ。

テラハに出るということは、それだけ世間の目にさらされ良くも悪くも様々な反応にさらされることは予想に難くない。だからそれ込みで出演しているわけだし、番組のそうしたスパイスも織り込み済みで出演しているはずなのだ。なので批判にさらされることは自己責任なのだ、という考えは成り立つだろう。成り立つのだが、一方で、その批判は妥当なのか。その程度は適切なのか。行き過ぎた場合、必ずしも自己責任と言えるのか、そうした観点も出てくる。反応はコントロールができるものではないから、未知数だし、未知数であるからこそ、番組側はそれなりのケアする体制を持っておくべきなのではないだろうか。スタッフも撮影のために現場にいるはずで、ある意味多くの時間を入居者メンバーと共に過ごしている。その中で、花さんの異変に気付くことはできたはずだし、それに対してドクターストップという手段も持つべきだ。番組は番組で、ある意味「自己責任」的なところに責任の所在を寄せて、入居者メンバーのケアを怠ったとも考えてしまう。

もちろん、番組側はいろいろとケアをしていたのかもしれない。これは勝手な憶測だし、後から何とでも言えることでもある。ただ、出来る手段があったのかもう無かったのか、そこは見返して欲しい。

 

一つ告白すると、花さんの訃報に触れたとき、僕の感情はそこまで大きく揺れなかった。なぜなら、以前、反響の大きかったエピソード放映後、リストカットして謝るような画像をアップしているのをたまたま見てしまったことがあり、自傷行為に走る、いわゆる闇を見てしまったのと、コロナの影響で試合ができず相当な影響を受けている、ということもあり、仕事も生活もかなり辛い環境にいたのだと推測され、だから。。。というよう考えどこか納得してしまう自分がいたのだ。

僕自身、SNSには積極的ではないから誹謗中傷を受けたときの気持ちは完全には想像できないが、でもそういった一切からは距離を置きたいからこそ専ら見るか自分メモだけに留めている。なので、ネガティブな反応の凄まじさというものが直接的には身をもっては分からない。しかし一人の人間が、しかも若くエネルギーに満ち将来のある女性が、死を選ぶほどに辛いものなのだ、ということを突き付けられたことも事実で。

世間の反応の大きさを感じ、そこにある色々な視点に触れて、いまこうして記事を書くくらいに自分の意識にようやく上がってきた、こうしたことの自分の愚かしさというか、他者要因をひしひしと感じている。

コロナで新しい働き方、在宅勤務がベースに今後なっていくであろう中で、コミュニケーションのあり方は大きく変わっていく。ネットワークを介したやり取り。

そこに匿名性が付加されると、他者への攻撃性・暴力性がぐんと上がる、そうしたことを改めて認識するわけで、テキストで送られる文字が、相手にどう届くのか、という視点は非常に重要になるだろう。

そこに、相手のことを考える想像力が必要なのは勿論なのだが、それができないから今回のような事件が後を絶たないのだから、将来的にSNSは実名と顔写真付きにすべきだろう。登録時はスタッフによるカメラチェック入りで。想像力が啓蒙される時間を待つよりも、後者のほうが実効性がありそうだ。極端ではあるけどね。

サービスのスピードは低下するが、SNS上でのマナーを作るのに最も強力な選択肢の一つとしては挙げられるだろうし、そのことが人の命を守るのであるならば、そうすべきではないのだろうか。

 

そうしたことを、考えてしまう。