誠に人生というのはその瞬間瞬間で心地が変わるものであります。
ふとしたときに不安にかられ、ふとしたとき心が軽く明るくなり、ふとしたときに腹立たしくなり、ふとしたときに心地よくなる。
それは外からの刺激に自分がどう反応するか、によって程度が変わるのでしょうが、この刺激にどこまで自覚的か、というのが曲者です。
明らかにわかりやすいものに対して人は記憶に残りそれを一時認識しますが、時が経てば次第に元の木阿弥。
それほど人の性根というのは変わりにくい。
ならば小さな刺激にはもっと無自覚でありましょう。
しかしこの小さな刺激、というものにもう少し注意を傾けてみても良いのではないか、そんなことを思うのですね。
日々は大きな刺激よりも、小さな刺激の方がよっぽど多い。
意識していないからこそ気づけないだけで、多かれ少なかれ何らかの刺激が日々過ごしていればあるはずです。
その小さな刺激は、ある意味当たり前のことであるから気づきにくいかもしれない。
しかし人間は面白いもので、意識的にも無意識的にも、そこに「反応」があるのであります。
心が、感情が、神経が、記憶が、生理が。
自覚がないだけで、人間は森羅万象を「自分」というもので濾過している。
そこに何が残るのか残らないのか、それは「自分」によるところであります。
そこに起こる一喜一憂の具合も、また「自分」によるところであります。
その「自分」というものが出来上がっていく。成長していく。
その「自分」というものが、遂に「生きる」ということの証になるのでしょう。
そう考えれば、出来上がっていく「自分」自身から生まれる言動や選択、というある意味で主体的なものの他に、刺激に対する「反応」というのも、また「自分」なのです。
そう考えれば、「自分」に起きる様々なことは、すべてひっくるめて「自分」の事なのであり、それを人は「人生」と呼ぶのかもしれません。